上官
ロイ・マスタング大佐
銜えた煙草を上へ下へと揺らしながら、調子をつけてハボックは晴天の下通りを歩いていた。市街を回りながら、実はデスクワークで固まった身体を解し、ぶらぶら司令部に戻っている。
顔見知りの肉屋の店主や花屋のおばちゃんに声をかけられては愛想良くにこやかに手を上げ声を返す。いやあ気分の良い日だ。こんな天気なのに室内におとなしくしているのは性に合わない。機嫌よく、彼の足取りも軽快だ。そして何より、本日彼の気分が上昇しているのは、あの上官を諌める女性の発砲事件が無かったことも関係していた。
いつも上官はまるでそれが当たり前であるかのように仕事をサボり、副官にどやされている。後になって慌ててやる姿をもう幾度と無く彼も他の部下達も目にしている。それでも一度として、期限に遅れたことが無いといくのは拍手ものだろう。それを上官は胸を張って威張っていたが、しかし部下であるハボック達は、遅れないよう早く処理ができるのならば、普段からもっと真面目に働いてくれてもいいではないか、と毎度毎度げんなりしている。どうして締め切りギリギリまで彼はやろうとしないのだろうか。思い出し、ハボックは肩を竦めた。
「あ」
どこかに綺麗なお姉さんやお嬢さんはいないかな〜、などと考えを楽しい方向に持っていき、周囲を観察していると、つい先刻まで悩みの種であった人物が偶然にも視界に入ってき、おやと彼は目を瞠る。
歩を進めていけば、僅かして相手も彼の存在に気付いたようで、彼を捉え、やはり同じようにおやと意外なものでも見たかのように視線を向けてきた。
「何だハボック、サボりか」
開口一番、上官ロイ・マスタング大佐殿は部下にそう宣い、彼の肩を落とさせる。げんなりして、反論は力無く発せられた。
「大佐じゃないんですから、そんなワケないっスよ……」
「お前、口には気をつけた方がいいと今までに何度言われたことがある?」
むっとしながら、ロイは部下を見据える。それではまるで、いつもいつも自分が抜け出しサボっているようではないか。御幣があるぞこら、と言いたげだ。
「ありますけどー……、大佐の場合本当に抜け出すじゃないっスか」
「頻繁ではないだろうが!」
まったくなんて部下だ、と憤慨しながらも、そこにはそれほど怒りは窺えず、ハボックも遠慮なく相対していた。
「大佐はいったい何を? デートですか?」
「デートは昨夜だな。先日知り合った娘と食事だった。羨ましかろう」
チクショウ、その娘ってオレが前から狙ってた子じゃないか、と内心で彼は毒づく。と、その時だった。穏やかな空気の流れる街なかに、いくらか不自然な騒がしさが生まれたのは。
さすがに鍛えられた軍人というものか、僅かな変化に彼らはすぐさま顔つきを変え、不自然の方向へ厳しい視線を向ける。
「発砲音、だったな。今のは」
「しかも複数。こんな人通りの多い時間に迷惑なヤツですねぇ……」
折角平和な一日を送れると喜んでたのに……、とハボックはまだ見ぬ騒動の原因に恨み言を吐く。表情はいたって真面目であるが。
「……折角の非番だというのに……」
ふん、と鼻で息を吐き、ひとつ肩を竦めるとロイは休日の顔から軍人の顔へと変わり、足を踏み出し後方のハボックに、振り返りはせずに告げた。
「行くぞ」
「了解」
現場と思われる場所に着いたとき、すでにそこには幾人かの軍人も集まっており、緊張の色がそこここに窺えた。小走りで現われたロイに彼らははっとして敬礼をし、道を空ける。颯爽と戸惑いの隠せない軍人達の中を進み、現状を確認してゆき、前面に出てゆく。
「何があった?」
「は。ここから数十メートル先の銀行を襲った男が、この廃屋の中に逃げ込んだようで……」
「何故そう戸惑っている? 人質でもとっているのか?」
中に突入もせずに外で困惑顔で待機している彼らに不審に思い問うてみるのだが、返ってきた答えは左右に首を振ることで、眉間に苦渋の皺を寄せていた。
「いえ、そうではないのですが……。実はこの廃屋、以前診療所として使っていたようで、いまだに薬品等が昔のままに残されているようで……」
危険な代物もある、ということなのだろう。口籠もった彼から視線を廃屋へと戻す。こんな状況だというのに、建物は静かだ。いや、この状況だからこそ静かなのか。眼を細め、ロイは面白く無さそうにしばしそれを観察する。
方法を見出したのだろう、小さく息を吐くと、ロイはすぐ後ろのハボックに声をかけ足を再び踏み出すのだった。
「行くぞハボック。中で何かしでかす前に捕獲する」
「分かりました」
既に明かりなどの証明器具は使い物にならないらしく、屋内は昼間だというのに薄暗く、医療関係の道具も力を合わせ、不気味さが増していた。あたりは埃が厚く積もり、彼らが進んだ後にはくっきりと足跡ができている。銃を構えるハボックが、くしゃみをすればもうもうと辺りの埃は宙に舞った。
「物を落とすなよ。何があるか分からんからな」
「わぁーかってますよ」
鼻を掻きながら構え直し、彼は先の部屋へと進んでゆく。
ギィィィィ……、と錆び付いた扉を開き、ハボックが顔を覗かせた瞬間、静まり返った屋内に発砲音が響いた。
「ぅおぉお!?」
今までに発揮したことの無い瞬発力で、あわや額に風穴ができるのを免れた。が、そのすぐ傍の壁には、出来上がったばかりの痕が壁を抉っており、改めて背筋を冷たくさせる。突然の事に、一時呆然とし、その場を動けずにいる彼を、後方から強い力が引き倒す。直後、また一つ銃声が反響した。
「馬鹿かお前は!!」
さっきまでの部屋に身を隠し、ロイは床に仰向けの部下を怒鳴りつける。あと少し遅れていたならば確実に被弾していただろう。
「す、すいません。……助かりました」
本気で怒鳴る上官の珍しさに現在の状況にもかかわらずそちらに驚きを抱き、床に転がったまま呟いた。礼を述べ、起き上がりながら明らかに不機嫌な上官を横目で眺める。
「……で、どうします?」
「さて。どうしてくれようか」
ぎろりと隣室に視線だけを移し、呟く。興奮した逃亡者の荒い息遣いが彼らにも届いた。
「おおおおおお前らぁっ、と、とっとと失せろぉ!」
「決まり文句っスね」
悲鳴のように叫ぶ逃亡者の言葉を冷静にハボックは受け止め正直に洩らす。それにはロイも呆れをいくらか含んだ同意を示した。
「たまには面白おかしい事を言ってのける犯行者はいないものかな」
まったく、オリジナリティが無い。どこかで『追い詰められた犯人の台詞集』なるものでも販売されているのではないだろうか、とどうでもよい考えが浮かんでしまう。
いかんいかん、と頭を軽く振り、ロイは腰を上げる。興奮している犯人をこれ以上野放しにしておくわけにはいかないだろう、とコートの懐から愛用の手袋を取り出し、右手、左手と嵌めてゆく。それを見て、顔を青くしたのは隣室の逃亡者ではなく、傍らの部下Hの方であった。
「ちょ、大佐!? まさか焔出す気ですか!?」
「いかにも。何か問題でもあるか?」
さらりと述べられた返答に、さらにハボックは焦りを濃くし、身を乗り出す。
「大有りですって!! どんな薬品があるか分からないんでしょう!? 引火したりしたらどうするんですか!!」
至極尤もな制止の言葉であったが、しかし対するロイは依然として平然と、どこ吹く風と部下の言葉を流すのだった。ふん、と小さく鼻で笑うと、彼は右手を顔の高さにまで掲げる。
「私を甘く見るなよ」
パチン、と鳴ったかと思うと直後、紅がロイの顔を照らし、隣室に走ってゆく。それは一瞬の出来事だった。まるで宙にある見えない路を通るかのように一筋の焔は隣の部屋に走ってゆき、そして破裂するかのように膨れ上がった。焔の化物のように大きくなったそれは、逃げる間も与えないほどに速く、男を飲み込んだのである。
けれどその焔も、一瞬のうちに小さくなり、消滅してしまう。跡には、ところどころ焦げてはいるが確かに生きている男が転がっていた。
「終わったぞ」
既に気を失っている男の元へロイは進んでゆく。その後から、信じられないとばかりに目を丸くしたハボックも続く。上から男を覗き込みながら、ハボックはようやく安堵に肩を落とした。
「……寿命が縮みましたよ〜」
聊か香ばしくなった男を抱えながら恨みがましげに見てくる部下に、ロイは口の端を上げ、ニヤリと笑む。
「言っただろう、私を甘く見るなと。目標物周辺の酸素等を極端に薄れさせ、コイツのところだけ濃度を上げてやるなど朝飯前だ。おいさっさと行くぞ、折角の休日が台無しだ」
すでに歩き出してしまい、ロイはさっさと外へ向かってゆく。
いつか着いてゆくと決めた背を、苦笑し追った。