タイトル『嫉妬』
嫉妬
あれは単なる事故だった。
そう。
何処にでもある様な、極普通の・・・。
〔わたしを庇っての・・・、わたしなんかを庇って彼は死んでしまった・・・。ああ・・・〕
「・・・」
「!」
少し力のこもった大きな手に肩を揺すぶられ、は目覚めた。
「あっ!」
二度三度、美しい翡翠の明眸を瞬きする。
眼前には現実の存在である良人、延王尚隆の姿が暗闇の中にくっきりと浮かび上がっていた。
「し、尚隆・・・」
「・・・・・」
は褥の上に起き直り、動悸を鎮めようと幾度か深呼吸した。
銀の滝の様に艶やかな髪が乱れ散り、細い肩が顫える。
「ご、ごめん。お、起こしちゃったね?」
が懸命に泣くまいとしている様子に、尚隆は憮然と起き上がった。
「もう五日もこの調子だな?」
「・・・・・」
尚隆は手近にある卓の上から酒瓶を取ると杯に中身を満たして些か乱暴に飲み干した後、もう一杯注いだ酒杯
をに差し出した。
「呑め。少しは気持ちが落ち着く」
「ん・・・。有難う・・・」
「・・・・・」
が酒に口をつける姿を、尚隆はもどかしい思いで見つめていた。
彼女を王后に据えてからまだ日は浅い。
新婚とも云うべき蜜月の中にいる二人だというのに、の様子が尚隆には納得がいかなかった。
夫婦であるというのにどこかよそよそしく、自分と一緒にいるとおどおどしている事が多いのだ。
『』という名をうわ言で呼ばれる度に、胸が苦しい程に締めつけられる。
その男とのかかわりは、から聞かされている以上の事は何も知らない。
そして『』という名をにつけてもらったという事実に、尚隆はたまらない不快感を覚えていた。
これは紛れもない嫉妬という名の感情。
こんな気持ちは生まれて初めてだった。
〔何にも縛られず、風の様に自由に生きてきた筈なのに・・・〕
薄暗い臥所に、が小さく喉を鳴らす音だけが密やかに響く。
尚隆の中に、男としての欲望が目覚めた。
溜息をついてまだ残っている酒杯の中身にじっと見入っていたの姿を暫し無言で眺めた後、口許を真一文
字に引き締めながら、尚隆は妻に向かって手を伸ばした。
「し、尚隆?」
尚隆は無言のままの手を取り、乱暴に自分の方へ引き寄せた。
杯がその拍子に褥の上に転がった。
「あっ! 何するの!」
もがくの寝衣の裾が捲れ上がり、雪の様に真っ白な脛がふっくらと晒されて尚隆の眼に刺激的にしみた。
唇が強く吸われ、はそのまま押し倒された。
「尚隆! や、やだ!」
本能的に恐怖を感じたは烈しく身もがきしたが、すでに遅く男の力の前に組み伏せられ、寝台の上で仰向
けに押さえつけられた。
「!」
他の男につけられた名を呼ぶ事は苦痛に近い。
だが尚隆の知っている彼女の名は泰王藍紫のつけた『紅玉』か、のつけた『』のみである。
そして初めて出逢った時、彼女は『』と名乗っていた。
その名の男の事が懐かしく、忘れられないからに違いないのだ。
醜い感情に支配される自分がたまらなくいやだったが、それでも尚隆はその負の感情に身を任せてしまった。
「やだ! やめてよ!」
「・・・・・」
幾許かの非難を込めた眼差しで尚隆を見つめる翡翠色の澄んだ双眸は、清楚でありながら何故か凄艶な色香を
放っていた。
女体に対する残忍なまでの獣性が、尚隆の欲情に加えられた。
は懸命に逃れようと、身を捩った。
しかしそれは、欲望の虜と化している尚隆の前では、却って彼の総てを刺激する結果となってしまった。
尚隆は再び己が唇を、芙蓉花を思わせる柔らかな朱唇に押しつけた。
甘やかな、蕩けるような感触が尚隆の五感を押し包む。
懸命に食いしばっている歯を難無くこじ開けて舌を差し入れると、柔らかな女の舌が尚隆のものとなった。
いつにない余裕のなさで、尚隆は夢中になっての唇を強く貪る。
絹の寝衣のどこかが引き裂かれた様な音がした。
痛い程に胸の膨らみを掴まれたは小さく拒否の言葉を囁き続け、いやいやと首を振って夫の行為を拒んで
みるものの、力ではどうにも敵うわけがない。
「あっ! や、やだってば! なんでよ・・・、やめてよ・・・、ああっ!」
「・・・・・」
身悶えながら男に向かって拒否の訴えを示す一方、の心は小さく灯された甘い官能の火に油を注ぎ込まれ
た様な心地で、全身がかっと熱くなった。
〔こ、こんなのいや! 薬でわたしを意のままにしていた藍紫と同じだ! 薬じゃなくても、閨の行為でわたしをねじ伏せようとしている!〕
だがの意識は尚隆の行為に抵抗の色をあらわしていたものの、女体の方は巧みな男の愛撫に徐々にとけ緩
み始めていた。
そしてそんなの姿に、眼の前の尚隆は妖しい興奮を覚えているのだ。
尚隆の太い首から下がっている紅い首飾りが迫ってくる。
自分の身体から搾り取られたその雫が、たまらなく嫌だった。
の双眸に涙が浮かび、紅玉の珠となって零れ落ちる。
それは哀しみとも歓びとも解らぬ輝きを帯びていた・・・。
翌朝早々、尚隆を避けて隠れる様に露台から雲海を見つめていたの背後に、やっと慣れ始めた夫の気配を
感じた。
しかし彼女は振り返らず、そして何も云わなかった。
暫しの沈黙の後、口を開いたのは尚隆であった。
「すまなかった・・・」
「・・・・・」
「昨夜の俺は、どうかしていた・・・」
「・・・。謝るくらいなら、あんな事しなければいいのに!」
「・・・・・」
は振り返り、口許を引き締めて自分を見下ろしている尚隆をぐっと見上げた。
「なんであんな事したの? 夫婦だからってあれじゃ手籠めも同然だよ! あんなの・・・」
「俺は、嫉妬していた・・・」
「えっ?」
尚隆を睨みつけていたの透き通るような翠の瞳が、その飾り気のない言葉に揺らいだ。
「・・・。は、お前をどのように愛してくれたのだ?」
訝しげに尚隆を見返し、そして彼が問い質したい事を理解したは美しい顔を真っ赤にして声を荒げた。
「な? 何云ってるの?!」
「・・・・・」
「し、尚隆・・・、わ、わたしとの事、疑ってたの?」
尚隆はふいと顔を背けた。
「疑っているのではない。事実として受け入れているだけだ」
「・・・・・」
「詳細を話してはくれんがお前が戴から出奔した後、妓楼で出逢ったを頼って夫婦気取りで暮らしていた事くらいちゃんと解っている。だが・・・」
そこから先、尚隆は口を噤まざるを得なかった。
なぜなら彼の両頬を挟み込む様にして、の両の掌が平手打ちを与えたからである。
「・・・・・」
「まったく!!! 何考えてんだか!!! 尚隆の莫迦!!! なんにも知らないくせして、どうしてそんな頓珍漢な事云うの!!!」
「違うというのか?」
「・・・・・」
〔悔しい! 悔しい!! 悔しい!!!〕
「知らないよ! 勝手にそう思ってれば! いやらしい!」
尚隆に疑われていた事と、との思い出を貶められた様な気がしたは感情の乱れを抑える事が出来ず、そ
して涙を堪える事も限界の様子でその場を走り去った。
美しい紅玉の珠の後を追えば、自然との元へ辿り着ける・・・。
果たして西宮福寿殿の神苑では、が小さくしゃがみ込んで路木を見つめていた。
彼女の周囲は宝石を撒き散らした様な状態になっていたが、涙はとりあえず治まった様子であった。
「・・・」
「何の用よ! わたしは今、物凄く怒ってるの! 放っておいてくれない!」
「・・・・・」
尚隆は黙っての傍に座り込んだ。
「話してくれなければ、誤解は解きようがない」
「・・・・・」
「俺は今まで、好きにしてきた女の過去の事にこだわった事など一度もない」
淡々とした言葉の裏側にある、ある種の必死さがいつもの尚隆らしくなく、を瞠目させた。
「だが・・・、お前は違う・・・」
尚隆は腕を伸ばし、を逞しい胸の中に抱き寄せた。
ほんの少しだけ抵抗を見せた女体だったが、それは一瞬の事である。
「尚隆・・・」
「俺は、どうにもお前に惚れ込んでいるらしい。だから嫉妬もする・・・」
は双眸を見開いた。
「な、なんで嫉妬なんか・・・」
「女房に寝言で他の男の名を呼ばれて、嫉妬しない亭主がいるのか?」
「あっ・・・」
「お前の気持ちがどこにあるのか、正直言って自信がない。お前は俺の傍にいると云ってくれた。俺が必要なら傍にいると・・・」
柔らかな身体を抱き締めている腕に力がこもり、は漸く尚隆の心を知った。
彼は不安なのだ。
でもそれは、自らの不安と同じようなもの。
幸せに慣れていない、孤独ではなくなくった事に・・・。
温かい春風の様なぬくもりに包み込まれたは、ほっと男の腕の中で吐息をついた。
「はね、わたしの事を女だって気づいても、変な要求は一度もしなかったよ」
「・・・・・」
「それまでの生活って、『生活』って呼べる代物だったのかも解らないんだけど、とにかく辛い事ばかりだったから。はわたしの事をありのままに受け入れてくれて、何にも要求しないで、庇ってくれた最初の人だったんだ・・・」
「・・・・・」
「物心ついた時から『化け物』って呼ばれて、色々な人の間をたらいまわしにされて涙を搾り取られてた。藍紫の元では身体を奪われた挙句、思い出すのもぞっとする辱めばかり。紅玉なんて名前、大嫌いだった。涙そのものしか求められてないなんて・・・、わたし自身はどうでもいい扱いを受けて・・・。妓楼で男のふりをして下働きをしている最中に女だってばれて・・・、その時はも他の男と同じなのかって凍りついたけど、でも彼は違った・・・」
「・・・」
「わたしに『』って名前をくれたんだ。何の見返りも求めずに・・・。それがただ、嬉しかった」
「・・・・・」
「でも、幸せなんてそう長くは続かない。たった三ヶ月、三ヶ月で死んじゃった・・・。わたしを庇って、馬車に轢かれて・・・」
「そうか・・・」
「こんなわたしなのに、綺麗って云ってくれたの。いまわの際に・・・」
「・・・・・」
抱き締めている腕の隙間から、再び真紅の珠が転がり落ちる。
それは美しく、そして哀しい輝き・・・。
「俺は・・・、お前を泣かせてばかりだな」
「・・・・・」
「好き合って一緒になったと思っても、心の傷までは簡単に癒やしてやれない。俺の傍にいる事は却ってお前の傷を広げてしまっているのかも知れん・・・。泰王とはまったく違うが、俺も所詮は『王』だからな」
「尚隆・・・」
「お前は俺が近づくと微かに身を硬くする。閨でもそうだがいつも虚勢と萎縮の態度を崩さない。俺は・・・、お前が幸せそうに見えないのが、何より辛い・・・」
口ごもった尚隆を見上げたは、ふとが云った言葉を思い出した。
『幸せってのはさ、きっと共同作業なんだろうな。一人だけ幸せってのより二人で一緒にってのがさ。俺はそっちの方が断然いい・・・』
が云ったその言葉は、当時のわたしにはあまり理解できなかった。
幸せの意味も解らなかったし『二人』というひと括りにもまったく興味がなかった。
というより怖かった。
『一人』で傷を癒やしている事には慣れっこだったし、寂しいとも思わなかったから。
ううん。寂しいと思わなかったというのは偽りだ。
一度そう思い出すと、際限がなくなってしまう。
例えば、を失った後の何年かの間・・・。
だから考えない様に、なるべく深く他人と関わらずにすむ様に生きてきた。
「わ、わたしさ・・・、長い間一人で生きてきたから『二人』で『ひとつ』ってのに、なかなか慣れなくって・・・」
「・・・・・」
「の事が好きだったのかと聞かれれば、好きだったよと答える。今でも好きだよ。本当に・・・。彼がいなければ今のわたしはなかったんだもの。でも・・・」
「・・・・・」
「女としてのわたしが、初めて好きになった男は尚隆なわけで・・・」
何気ない一言だというのに男の表情は一転し、そして女は自分の心をあまり言葉にしていなかった事に漸く気
づく。
言葉というものは大事なものだという事に・・・。
は頭に手をやって、照れた様子で呟いた。
「昔、が云った『幸せって共同作業で、一人だけ幸せってのより二人で一緒の幸せ』って意味がやっと解りかけつつあるわけ・・・」
「・・・。で?」
尚隆の促しには言葉を続けた。
「でも孤独に過ごしていた時間があまりにも長かったから、そ、傍に尚隆がいると、凄く嬉しいんだけど慣れないというか、凄く不安になるの」
「不安?」
はこくんと頷いた。
「幸せって感覚を今まで殆ど味わった事がなかったていうのもあるけど、尚隆との今が長く続かずに突然終わっちゃったら、を失った時とは比べ物にならないくらい自分が駄目になっちゃうっていうかきっと、死んじゃった方がいいだろうなぁとか、考えてしまうわけ」
「つまり俺が好きで幸せなんだが、その幸せの先を考えると不安になってしまうから俺が傍にいると緊張するというわけか?」
ほっとした様子の尚隆の言葉に、は顔を赤らめて俯いた。
「ほら・・・、『過ぎたるは及ばざるが如し』って云うでしょ?」
「莫迦! 夫婦の愛情に使う諺ではないぞ!」
尚隆はぎゅっと腕の中のを抱き締めた。
「ちょっと、尚隆! く、苦しいってば・・・」
「いいんだ! 俺が苦しんだ分、お前も相当の代価を支払って貰う事にする!」
「・・・・・」
「俺はお前が好きだ。苦しいくらいに・・・」
「尚隆・・・」
「こんなにも執着した女はお前以外にない・・・」
「わ、わたしは・・・」
「は汚れてもいないし、化け物でもない。俺の大切な妻だ」
きらきら輝く銀色の髪を優しく梳きながら、尚隆はを見つめた。
「愛している・・・。俺の」
「・・・。有難う、尚隆。わ、わたしも、尚隆が好きだよ・・・」
の双眸が尚隆の愛情深い瞳を見上げる。
「幸せに過ぎるという事はない。努力はせねばならんだろうが・・・」
「・・・・・」
「二人で一緒に幸せになろう。いつまでと期限のきれるものではないが、少なくとも幸せでありたい為の心構えは互いの愛情にあると俺は思っている・・・」
「ん・・・」
「の事、嫉妬してすまなかった。彼は、お前が心を傾けるに足る立派な漢だったのだな」
その一言にの明眸から最期の紅い雫が転がり落ちた。
「あ、有難う・・・。愛してるわ、わたしの尚隆・・・」
「うむ・・・」
その一言を、尚隆は満足そうに聞いたのだった。
後記
ももねこさま!アリガトウゴザイマス!私にはこ〜んなかっこいい&艶かしい?尚隆書けません!
そして、が動いているのがとても印象的。てか、かわいいですよ。この子!
ほんとうにありがとう御座いました〜。
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