タイトル『紅玉の涙第四章1』
「主上、ご存知だったのですか。」
報告を終えた朱衡は尚隆の様子を見てすでに予想済みのことであったことを確信した。
「まあな。言っただろう、欲しいのは確証だ、と。」
悪戯が成功した子供のように彼は笑う。一見無邪気のようだが、実際のところ彼が何を考えているのかなど分かったものではない。朱衡はそう考えながら一種諦めのようなため息を付いた。
「それで、どうなさいますか。彼女は。」
「…朱衡、今日の分の仕事はそこに片付けてある。」
そう言って示したところには確かに今日中にしなければならないこと。しかし、今はまだ正午にさしかかろうかどうかという時分。普段ならばそれほど早く仕事を終わらせることなどない。そう、たとえ終わっていなくともどこかへふらふらと放浪するのが尚隆なのだから。そして、わざわざ言い示したということは、
「数日お帰りにならない、そう受け取ってよろしいでしょうか。」
このように結論付けて尚隆に問えば、当の本人はまたも表面は無邪気にしかし、先程よりも深く笑みを浮かべてこう言ったのだった。
「ああ、まあ玄英宮にはいるがな。」
「は?それはどういう…」
「後宮に居るさ、数日、な。」
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尚隆が登極してより玄英宮の後宮に女子が滞在することは今までなかった。本来ならば王后など王の伴侶やその子供の住居する私的な空間である。
が、この王は胎果である。こちらに戻ってきたのは王としてであり又その時彼自身、故郷も民も全てを失くしていたのだった。蓬莱では妻もあり子供もいたようだが彼自身はそのことについては多くを語らなかった。ただ、一言で終わらせていたのだ。
『黄泉ではあるが親子で仲良くやっているだろう。』
さて、話を後宮に戻そう。そういった経緯があるからかどうかは知らないが彼はこの後宮に女を連れてくることはなかった。何せ後宮の一室に朱衡の執務室らしきものがあるのだから。女に惑わされて国を滅ぼした王は数知れず。尚隆は関弓をはじめとして様々なところの妓楼に行くことがあるが、女に溺れるということはない。それは今までの後宮の空室と彼の政務の実績に基づく。
「というわけですので、様が後宮に入られるまでここには主上は女人をどなたもお連れしていません。私のような後宮付きの女官などはやっと本来の仕事ができるというもので嬉しい限りですわ。」
そう締めくくった藍梓は、お茶を淹れに席を立った。立つ前にはに心底嬉しい、というような表情を向けて。
が玄英宮へ来てより数日が経っていた。その間彼女は、最初の露台のある部屋から更に奥にあるこの後宮へと場所を移っていた。最初はそこがどこかなどとは気にしなかったが、女官たちが何故か嬉しそうにを見るのでその理由を藍梓に尋ねていたところだった。
そうして、疑問が納得に変わったのは良いのだがどうも、藍梓の口ぶりではこのままが尚隆の王后になるような感じだったのには思わずも苦笑した。
「藍梓、私がここに居るのは単にあの部屋だと尚隆の都合が悪いからだと思うが。決して、そういう目的でここに入れたんじゃないと思う。」
「まあまあ。そんなことは御座いませんわ。だって主上は、確かに妓楼などへ行かれますがそこでは“風漢”と名乗るはずですもの。最初から御名をお教えになられることなど前例に御座いませんもの。」
どこか自信に満ちて、茶器を卓の上に載せる。器の中には小さな花のような茶葉がお湯でふんわりと花開くように入っている。
(監視だろうな。得体の知れないものをあんな誰もが目に付くところに置いておくのは問題があるだろうし。それに最初の出会いがあれだしなあ。)
少なくとも自身に今現在は、尚隆に関して好意どころか興味もないらしい。
その点においては尚隆のほうがまだ上なのだろう。彼は自身の名を名乗っているし興味も持っている。まして自身が王であることを簡単に明かしている。最初の男色疑惑と押し倒しは、ここでは言うまい。
「様?いかがなさいました?」
急に黙り込んだを訝しげに覗きこむ藍梓。
「いや、なんでもな…」
「藍梓も俺自身のことを大分わかっているな。朱衡の影響か?」
女二人の会話に闖入者。それは玄英宮と雁州国の主であった。尚隆の突然の訪問に聊か驚いたようではあるが、そこはさすがに王宮付きの女官。その素振りもすぐに失せ伏礼し手際よくお茶を入れに席を立つ。ただ、その時少しではあるが藍梓の顔に赤みが指していたことには気付いた。
「?…仕事はどうした。」
「終わらせてきたさ。そうでもせねば、朱衡がうるさいからな。」
飄々とした答えには、疑わざるを得なかった。時刻はまだ正午だったからだ。その上今日は、三日に一度の朝議のある日。
「信じておらぬな。」
くっくっと笑いながら、続けられた言葉には驚愕した。
「そうでもせねば、朱衡が藍梓に言い後宮へは来れなくするだろう。この鴛鴦夫婦の連携はかなり手強いからな。」
政務では朱衡、後宮へは藍梓がいるのではな、と苦笑じみて言う彼の言葉に思わずは藍梓を見つめた。
「藍梓、夫がいたのか。」
「なんだ、聞いておらなんだか。」
二人の様子をただ微笑んで尚隆にお茶を渡す藍梓、その様は確かに朱衡とは鴛鴦夫婦と呼ばれそうだ。そこからは、朱衡についてやその他の官吏についての話で盛り上がった。主に尚隆と藍梓が、だが。しかし、その内容はには初めて聞くことばかりだったせいか、彼女には新しい知識が増える結果となった。例えば字について、“無謀”“猪突”“馬鹿”など。
話が一段落した頃、藍梓は退室し部屋にはと尚隆の二人になった。
「どうした?浮かない顔だが。」
「…驚いているだけだ。まさか藍梓の夫が雁の春官長だったとはな。」
本気で驚いているらしく呆然とした答えになぜか尚隆は微笑む。
「しかし、お前下賜するならもっと良いものにしたらどうだ?」
この問いに尚隆はなるほど、と納得していた。
(呆然としていたのはそこも関係があったか。)
「何、どうせ呼ぶ勇気のあるものなどそう居りはせぬ。何より俺が楽しいからな。」
そしては思わずため息を漏らす。
それは、ふざけた字を下賜されたものたちを思ってのことだった。だが、がそういう風に他者に対して心を割くのは玄英宮に来てから初めてだった。
「この玉とお前のことだがな、。お前自分のことを調べていたのか。」
突然の核心についた質問。しかも尚隆は今までと同じような口調で言い出した。まるで世間話のように先程の続きのように、あくまでも自然に淀みなく。
「……関係ない。」
「そう、思うか?」
何処か悪戯めいた雰囲気をかもしだす尚隆。それはに既知感を髣髴させた。いつか、遠くない日に似たようなことがあったような。
どこかで。
「それにしても、お前は俺が“王”だと知っても何も変わらないな。」
「変えたくない。」
「ほう?」
その答えは尚隆には意外だったのだろう。関心と興味が混ざり合った返答と続きを無言で促す。
「最初に知ったのが“尚隆”という男なら、それが例え“王”であったとしても私の中では変わらない。逆なら違うが。」
つまり、の中では初対面が一番重要視されるらしい。最初に出会ったのが単なる男ならば後に知った身分がたとえ神仙の類であっても特別視しない、と。
「なるほど。つまりの中で俺は“男”である、と。」
尚隆のいうことが疑問系ではなかったために、は答えなかった。そして、すっかり冷めてしまったお茶に手を伸ばす。
否、少なくとも彼女は伸ばそうとした。それを空中で捕まえられたのだった。
「何?」
視線を尚隆の顔に向けて、その眼を見ては後悔した。
(…何、この目。どこかで、)
先程も感じた既知感。そう、恐怖を背に感じたことが最近あったような。捕まえられた手はそのまま尚隆の顔のほうへ持っていかれる。そして、に見せ付けるようにその甲に軽く唇を触れさせる。そこでは漸く気がついた。先程から感じている既知感の正体。
(そうか、妓楼で!)
最初に尚隆と出会った妓楼、そこでの女としての恐怖。それに似ている。
「“男”として見ているのならば俺に口説く余地はある、そういうことだな。」
静かに先程までの揶揄など微塵のなく、それは確かに“男”の声。恐怖を抱くはずだった。それは、その先の行為はにとある王を思い出させる。今はもういないかの国の王。手篭めにしの涙を欲した者。それでも行為の後には、必ず呼ぶ彼。その彼が含んでいたものと同じものを目の前の男は篭めて言っている。
怖いはずだった。だからこそ、妓楼では叫び声をあげたのだが。
(…何だ。怖いが怖くない?)
右手で尚隆はの腕を掴み上げている。反対の手では掴みあげた故に袖が下がり露出されたの腕にそっと這わせる。
「っ!」
そこには薄くなってはいるものの、決して少なくない傷跡。
「藍紫の足跡、か。」
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