タイトル『紅玉の涙第四章2』
俄かには信じられなかった。男の言ったその言葉に。最初は、聞き間違えだと思っていた。そして、次に思うのは藍梓のことかと思った。
聞けば二人とも同じ音だからだ。だが、それではの傷跡を指して尚隆がそう言ったことに説明が付かない。
『藍紫の、足跡か。』
そう言ったのだ。確かにそう言ったのだった。
「今、なんと言った。」
呆然と呟く。どうしても信じられなかった。信じたくなかったのかもしれない。
そんなの様子を先程からずっと手を持ちつつ尚隆は見ていた。一部始終を。表情の変化も感情の変化も、全てを見逃さないように。
見落とさないように。右手にの手を握り左手は彼女の腕に這わせ上昇させていく。
男の手は女の肩ほどまで伸びた。そこが男の腕が伸ばせる限界だったからだ。
だが男の左手はまだその先へ伸ばしたがるように指は女の顔へ向いている。
そこで漸く答えた。
「藍紫の、足跡(そくせき)か。そう言ったんだ。」
沈黙が部屋を占めたのはどれほどの時間か。それは短くもあるようで長いようであった。女の頭の中には今までにないくらいの回転の速さで現状を
把握しようとしていたし、男はそんな様子を黙って見ているだけだった。ただ二人の距離の近いことと会話の内容が指していることが部屋の中を重くする手助けをしていた。
その内容は、何も知らないものには対した意味もなくまた理解されることもない。
「藍紫のこと、どうして知ってる。」
は自身に触れていた尚隆の手を振り払い真っ直ぐに尚隆の目を見据えて聞く。
藍紫が戴を治めていたときはまだ、尚隆はこちらにいない。ましてや他国のことなど普通の王ならばあまり懇意にしないのが通例。玉座に就いた、亡くなった、道を失った
などのことならともかく過去の王が、個人的に何をしていたかなど知るはずもなかった。
「俺はどうも歴代の王たちとは異色らしくてな。」
振り払われた手を気にもせずに苦笑して語る尚隆。その手は今ではすっかり冷めてしまった茶へと伸びる。
「よく市井に下りる。まあ、時には国外へも行くことがある。
以前、戴へ行ってな今の王に聞いたことがあるのさ。」
数代前の王、藍紫を惑わした人妖のことをな。
尚隆の語りはこうしてはじまった。最初のほうはにも予想できた。この王が定石通りでないことなど初対面のときを思い返せば容易に納得できることだ。
「ついでに言えばその人妖の顔もみたな。」
「は?」
「絵が残っていた。」
の記憶には藍紫がの絵を、肖像画の類を拵えていたところなど記憶には一切なかった。それどころか晩年に近くなればなるほど藍紫は玉のみに執着を見せていた。
の顔など見向きもしていていなかったように思う。
もともと藍紫という王は、風雅を嗜むものだった。詩歌をつくり、花、玉を愛で、絵画を好み…
「ま、さか。藍紫の?藍紫…が?」
「ああ、水墨画というものに近いかもしれないがそこには、お前がいたよ。。
今と変わらない年頃のお前がな。
王に聞いてみればそれは藍紫という王が晩年、自身の元を離れた人妖を形に残しておくために描き残しておいたそうだ。その後の王がそれを破棄するかもしれないにも
関わらず、な。」
茶器の中身はすぐに空になり、尚隆は一体どこに持っていたのか酒を持ち出して器に注ぐ。尋ねもせずにの器にも注ぐ。
「……」
「男が描いているとき言っていた言葉が、男の滅びた後に就いた王たちに残り続けた。そしてそれを俺が行くその時までずっと管理していた。」
「藍…紫、なぜ描く前に民のために何かをしなかった。私の絵など描く前に。なぜ…」
呆然としながら吐く言葉。けれどもその中にわずかに怒りが満ちていることも確かで。
「私、結局ほんとに戴を滅ぼしたんじゃないか。結局…」
「その絵を書き出したときには麒麟はすでに死んでいた。だからこそ、男はお前の絵を遺そうとしたんだろう。男が死んだ後、その私室からは一つのことばに埋めつくされた雑記帳が
見つかった。謝罪の言葉で埋め尽くされた、な。
そして、男が“彼女”に何をしてきたのかを書き連ねたものもあった。自身の行ってきたことを全て客観的に記録しているもの。“彼女”名前。」
もう、何も問うつもりもないのかそれとも力尽きたのか、傍目にもの体から力と言う力が抜けていっているのが分かった。
器に注がれた酒はそのままだった。
「不思議なことに」
「……」
「男の部屋にあったはずの紅玉は全て失われた。人妖の逃亡と共に。それ故に彼女の存在していたと言う証拠さえもなくなっていた。だからこそ、男は晩年に絵を描き始めたのではないか?まあ、これは俺の想像にしかすぎんが。
程なくして男は死んだ。そしてその後荒廃の進んだ戴国で奇妙なことが起こり始めた。これは主に市井で起こった。そしてそれは今も伝説となって語り継がれている。
空から紅玉が降ってくる、と。小さな玉で、涙型のような純度の高いもの。
それはまるで、空が血を流しているかのように。天が泣いているかのような。
荒廃の進んだ地でも何とか生きている者はいる。彼らはそんな玉よりも食い物飲み物が欲しい。それでもその玉の落ちてくる様を見ているとやりきれなくなり泣いてしまうものがいたり、
逆に憤るものもいた。その玉を所持し続けたものは新たな王が立った後それを換金するものもいるらしいがな。
、王宮を出るときに一体何をしてきた。」
呆然としていてどこを見ていたかわからなかった目が驚愕に満ちて尚隆を見る。
通常、雲海の水は地上には落ちてはこないもの。また、そこを通じて何かものが落ちるなどあり得ないことだった。だが、実際にそれは起こったらしい。なにがどうなったかなど、誰にも
分かるはずもない。過程は分からずとも結果が出ている。原因は、に思いつくのは一つ。
「逃げ出すとき、撒いたの。雲海にすべて。麒麟の背に乗りながら撒き散らした。」
「そうか。」
尚隆は酒を煽る。その酒は彼の好むものであるはずなのになぜか今呑んだものは喉につらかった。
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