タイトル『紅玉の涙第四章4』

の目覚めはいつもと違った。それは懐かしい感じと一種の戸惑いを伴って訪れた最初の朝。

目覚め、覚醒、それはまず目を開けることから始まる。
(目が重い。)
開きにくく、けれども決して開かないわけではない。目蓋が重く、少し熱を帯びているようなあの独特な感じ。泣いた後の。
(久しぶりに泣いたな。)
臥牀に仰向けになったまま手で目を覆う。最期に泣いたのはもう何十年も前のこと。確か朔に性別を知られたとき?否、死んだとき以来か。
には知識はあった。泣くことに種類のあることは。ただ、知識と体験は種類を異にするもの。そのようなつもりは無かったがにはやはり信じられなかった。嬉しくて泣く、という行為を。
だが、不覚にも昨夜それを身をもって体験してしまった。夢か現かなど現在の顔の違和感がそれを明らかにしていた。
「藍紫。」
呟きに応える者など期待していなかった。いるはずも無かったのだが、
「ほう。俺が隣にいるのに開口一番で他の男の名を呼ぶか。」
少々気分を害したのだろうか、そんな声音を隠しもせずに尚隆が口を開く。
は思わず固まった。尚隆の言葉にもそうだが問題はその音源。
妙に近い。
それになにやら、体の半身が温かい。それはまさに人肌体温。
そして、自身のものではない匂い。
固まった腕が動かない。そのままの状態で文字通り固まってしまったかのようだ。端から見ればさぞかし珍妙な風景だろう。
女は顔に手をあて肘を天に向けたまま硬直しているのだから。その隣にはは認めたくないだろうが、確実にいるであろう男。
「いつまでそのままでいるつもりだ?」
「見たくないの。認めたくないの。確かめたくないの。」
拒絶の言葉。歯切れの良いことば、どうやら寝起きはよいようである。
「ならば、事実を認めさせてくれようか。」
ぎしっと臥牀が軋んだ音をたてたかと思えばの体は一旦、臥牀に沈んだ。その衝撃には手を退けざるを得なくなった。目に入ったのは靡く黒髪といかにも面白そうに顔を歪めている男。(ああ、小動物を追い詰める獣みたい。)
意外にも冷静に状況を見ているは自身に不図違和感を覚えた。が、それもすぐに消えた。
その映像はすぐに消え再び衝撃がを襲ったからだ。
「っ!?」
息がつまるほどの衝撃もこの柔らかな臥牀ではあまり関係はないらしい。衝撃など無いかのように吸収されてしまった。
ただ、二点を除いて。
一つは両手首を掴まれた感触。これは以前も妓楼でされたから同じ。目を開けてみれば、予想通り目の前に満面に笑みを浮かべた尚隆。前回と違うのはあのときはどこかを試すかのような色が浮かんでいた。だが、今回は単純に楽しさが滲み出ていた。

そして、もう一つ。
目を見開いた。驚きは尚隆に関してではない。自身の動悸に対して。押さえつけられたときと同じくらいの衝撃が彼女を襲った。決して身体的な衝撃ではないことは臥牀の例からわかるだろう。これは、もっと奥からの衝撃。もっと、深く、深くけれどもその衝撃は脊髄から何から全てを伝うほどのもの。
尚隆は、の表情の変化を単なる彼の行為から来る驚きと受け取っていた。
この行いは尚隆にとっても二回目。
こちらにとっても前回とは違うところが実はあった。
今回は単なる本能から。前回は確認のため。泰王藍紫の人妖かどうかの。
(気に、いらなかったのだろうな。)
現在、隣にいるのはまぎれもない尚隆自身であるのにの中には未だ残り続ける藍紫、朔の存在が。
妬み、嫉み、嫉妬…まぎれもなくそういう感情であった。

「重い。」
一言、だが決して非難に満ちているわけでもない呟かれた言葉。
「重さも感じられないことをしてやろうか。」
からかいも、悪ふざけも含んでいない尚隆の声は、低く深く、確実にの耳へ落とされる。その音はそのまま脳髄へ。
は背になにか電気のようなものが走っていくのを感じ、軽く身震いをした。

事実上、に圧し掛かっているわけだからその震えはもちろん尚隆にも伝わった。
こういうのもなんだが、彼は連日というほど妓楼に通っていたことがある男。その震えが恐怖か否かなどその判別は彼にとって容易なものであった。
「抵抗するならばいまのうちだぞ。」
「……そうだな。」
のその言葉を受け、今まで見下ろす位置にあった尚隆の顔がの首筋に近づいてきた。








バッタン!!
〜!!今日、俺と一緒に…ってなぁ〜にやってんだ、この馬鹿王が〜!!!」
突然の闖入者、又の名を邪魔者(尚隆にとって)六太が部屋に入ってきたのだった。
「今から良いとこなのだから、退室しろ。」
「ああ…って、んなわけねえだろ!!どう見たってお前がを手篭めにしてるじゃないか!!」
「やれやれ、これだからお前は子供だ。」
「だいたい、臥牀の上に玉があるじゃねえか!それがの拒絶だろ!」
この二人の即席掛け合い漫才の間、は黙っていた。と、いうよりも口を挟む隙が無かったのだ。
そして、六太の言った臥牀の上に視線を移す。すると無数の紅玉。これは、昨夜泣いたときに生じたものだった。どうやら尚隆はそれを全て集めていたらしい。その尚隆へ視線を移すと、何やら愉快そうに顔を歪めていた。このとき、は嫌な予感がした。こういう顔をした尚隆は碌なことをしない、そう本能が告げていたのだった。
「やはり、まだ子供だな。臥牀の上の泣いた跡を拒絶としか取れないと言うのは。これは俺を受け入れた跡だと…」
言葉は途中で途切れた鈍器で殴ったかのような鈍い音とともに。
組み敷かれたは最終手段を用いて尚隆の言葉を中断させた。つまり、頭突き。手首は押さえつけられたまま、体も尚隆に乗りかかられたまま。唯一動くのは首から上のみ。そしてこの密着状態が幸いした。の頭突きの間合いに尚隆の額があったのだ。
「な、何を言い出すか!不埒な!」
衝撃のため手首を捉えていた力が抜け、その隙に部屋から飛び出す。後に残るのは頭をおさえ苦笑しながら一人臥床にいる男。それを見ながら六太は思う。
(馬鹿な奴)
尚隆ならば先程のを避けるのはたやすかった。尚隆の言った意味を理解できないほど六太は幼くなかった。尚隆は、わざとを逃がす隙を作ったのだった。なんだかんだ言いつつ、尚隆のほうも深く関わることに躊躇していたのだった。

***********
「あらあら、さま。そのようなお姿でどうなさいました?」
陽は既に高くなっていたがは寝起きであったためにまだ寝巻き姿のままだった。しかも尚隆と一悶着あったのでかなり着乱れていた。
そして、珍しくも走っているに驚いた藍梓が引き止めたのだった。ちなみにこの時最初にを見たのは藍梓だった。
藍梓はの状況から、彼女の部屋に戻すよりも自室のほうが良いと判断し連れて行った。とりあえず、落ち着かせようとお茶を入れる。そしてそれを済ませたら朝餉(すでに昼餉だが)を持ってくるように手配しその他の仕事の引継ぎを行った。そのような雑務が終わった頃にはもすっかりもとの落ち着きを取り戻していた。そして乱心したことを恥じ入るように俯いていた。
「着替えをお持ちいたしましたのでお召しかえを。」
何事もなかったように平生どおりの反応をとる藍梓には安堵した。
普通、後宮付の女官は着替えを手伝う。だが、はこれまでそれを拒んでいた。慣れないのもあるが何よりも見られたくないのだ。全身にのこる傷跡の数々を。藍紫によるもの、生活の過程でできたもの、理由は様々だがその裸体は決して美しいものではなかった。それは、消えない証。それまでの苦労の。
そこで不図は気付いた。走っていたとき服は相当乱れていたはずだ。もちろん少なからず見られているはずだ。
(誰に?藍梓に、そして尚隆に。でも、何も言わない。)
顔をこわばらせるでもなく、不審に思うわけでもなく。それはにとって不思議な新鮮な反応。どこかからだの内側がむず痒くなるような。
さま?いかがなさいました?」
着替え終えても立ちっぱなしで釦を留めた姿勢のままでいるの様子に藍梓はいぶかしむ。
「な!?さま?」
今、着終えたばかりの服を一枚一枚脱いでいく。これにはさすがの藍梓も驚いた。
「一体、何をなさって…」
「止めないで。見てもらいたいんだ。」
その言葉に絶対の意志と覚悟があった。しゅるりと、最後の一枚を脱ぎ捨てては明るい部屋で素肌を晒す。
そこには古いものから新しいものまで様々な傷跡。右腕上腕部の裏側に火傷痕、左肩には槍傷痕、脇腹には三尺ほどの刀傷。ちらちらと見えていたので、藍梓にはある程度の覚悟はあった。
だが、実際に明るみで見せられると思わず、息を呑んだ。
「やっぱり、気持ち悪い?」
淡々とした声音ではあったが、それが彼女の精一杯の虚勢であることは握り締められた手が真っ白なことからわかった。その様子を凝視していた藍梓は手に布を持ちそっと近づきふわりとを覆った。
「少々、悲しく思います。痛々しすぎますもの。ですが、気持ち悪いとは思いません。おそらく、主上もそう、思われますわ。」
「そんなのわからないよ。あいつ、妓楼でたくさんのきれいな女を見てきた。こんな、汚い身体…」
前日までとあまりに違う。原因は尚隆であることは明確だった。彼が彼女の部屋に訪れるまではにこのような様子も素振りも見られなかったのだから。
「主上がどうかなさったのですか?」
「…」
「主上に対して行き過ぎた敬意は不要ですわ。あのようなお方ですもの。むしろ身分を明かしになられて態度を変えられるほうが悲しまれる方ですわ。」
茶目っ気たっぷりにいう藍梓。取りようによってはこれは不敬罪ともとられることば。それをあえて言うのは一重にの尚隆に対する壁を取り払うため。藍梓からみるとやはりは、尚隆に惹かれているように見えるしそれは尚隆にとっても同じこと。
ただ、両者がどうも今一歩踏み込めていないように感じるのであった。
しばしの沈黙の後は意外なことをいったのだ。
「尚隆が、何かしたわけじゃなくて。うん?否したんだけど。
私、のほうが何かおかしい。さっき、尚隆が…」
すべてを話を聞き終えて藍梓はため息をついた。まさか、こちらのほうに自覚がないとは予想はしていたが呆れたのだった。
「野暮なことをお聞きしますが、さま。どなたか殿方をお慕い申し上げたことはございますか?」
「え…な、いね。」
「でしょうね。」
意識していることは藍梓が見ても明らかだった。それがそういう感情かどうかはわからないが、少なくとも男としての意識はしているハズ。なんとなくだけれども。所詮は勘なのだが。
だが、尚隆に関しては意識している。連れ帰り、本名を明かし後宮に連れてきたのだ。そして何より妓楼通いがなくなったのだから。
問題はのほうだった。意識しているのを自身がおかしいと感じるようでは。抵抗もしなかった、しかも身体を見られたときのことまで危惧しているというのに。 
(肝心の本人が自覚どころか感情の機微に疎いなんて。)
よし、と勢いをつけて一息に言う。
「主上はそのお体を受け入れてくれますわ。それには根拠もあります。」
そうして藍梓は腕を捲り上げた。するとそこには大きな火傷痕。大きく歪に歪んでいて醜い痕。
「そ、れは。」
「主上はこの傷をご存知ですし夫も知っています。その経緯も。夫は、朱衡はそれでも私を受け入れてくれました。それらすべてを包みこんで私を想ってくれています。本当にお慕いしている方ならば受け止めてくれますわ。それにはまず、踏み出すための一歩が必要ですわ。」
腕を元に戻して藍梓は優しく微笑む。
「少なくとも、私や台補はさまを認めていますわ。受け入れております。」
「……ありがとう。」
再び俯く。だが、そこには先程までの恥ずかしさはなくただただ胸に広がる感謝に溢れていた。
ようやく様々な感情が落ち着いた頃は不図疑問に思った。
「でも、藍梓。さっきのまるで私が尚隆を慕っているのを前提にしてたみたいだね。」
「あら?違いますの?よくよく、ご自分のお気持ちと向かい合われてみてくださいな。」
くすくすと笑う藍梓と疑問符を浮かべるの図が出来上がっていた。


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